キューバ、ドミニカ共和国、パナマ、プエルトリコ、ベネズエラ

キューバ


オマール・リナレス
  (02〜04年 中日)  132試合  .246  11HR  61打点


タイトルなし

キューバ共和国出身

大リーグ経験なし

 アマチュア野球最強の王国キューバを支えたキューバ国民の英雄「キューバの至宝」「20世紀最高の内野手」との呼び声も高い。
 来日は2002年、それまで巨人の長嶋茂雄監督などが何度ラブコールを送っても一貫してキューバのナショナルチームから離れようとしなかったが、チームの世代交代もあって代表を引退。すると念願の日本球界への球界入りが決まった。
 来日すると、年は35で全盛期からはほど遠く、中肉の体型。往年の豪快かつしなやかなバッティングは見られず、金属バット特有の悪い癖もあらわにした。1年目は散々な成績に終わった。
 もともと単年契約だったが本人の希望により契約を延長、すると30後半の年齢にもかかわらず順応性を見せ、代打として活躍した。3年目には日本シリーズ・短期決戦での勝負強さを見せて2HRの活躍をした。
 いずれにしろ年が年だっただけに、もう少し早く来日していたらその成績は恐ろしいものになっていたかもしれない。


 アマチュア界最強のバッター
 17才からキューバの代表チームに参加すると、3番サードとして世界選手権を4連覇。バルセロナ・アトランタ五輪でも活躍し五輪2連覇を果たす。とにかく国際大会で大暴れをしていた。
 往年にはキューバ国内リーグで3冠王にも輝きキューバ史上最高のプレーヤーと評された。

 日本球界での年俸は600万円!?
 キューバ国民の英雄であるリナレスは中日に3年間在籍したが、報酬額として年600万円ほどを受け取っていただけであるらしい。
 これはリナレスが社会主義国出身であるため高額の年俸を支払えない事情があったため。そのかわりといっては、中日側がキューバ国内の球場の改装費用を支払ったというエピソードもある。



オレステス・デストラーデ
  (89〜92,95年 西武)  517試合  .262  160HR  389打点

日本シリーズMVP1回、本塁打王3回、打点王2回、ベストナイン3回

キューバ共和国・サンティエゴ出身

大リーグ成績
.241  26HR  106打点

 西武黄金時代を支えたメガネの似合う「カリブの怪人」。両打席でホームランを打てるスイッチヒッター
 8才のときにキューバからアメリカへ移住。大リーグの名門のニューヨーク・ヤンキースへ入団。パイレーツでメジャー昇格する。
 しかしメジャーでは出場機会が恵まれず、89年シーズン途中に西武に入団。西武は当時黄金時代真っ最中。85年から4年連続リーグ優勝を続けていたが、この89年は中軸を担って前年38HRの活躍をしていた外国人のタイラー・バン・バークレオが極度のスランプに陥り急遽代わりの助っ人候補として獲得されたのがデストラーデだった。
 デストラーデは89年西武に入るとデビュー戦からホームランを放つ活躍で83試合の出場ながら32HRの活躍を見せた。しかし、チームは惜しくもリーグ優勝を逃している。ちなみにこの年の130試合に換算すると50発ペースだったことを考えると、開幕からいれば西武のV10も夢ではなかった。
 90年には打率こそ平凡だったが42HR、106打点の活躍で本塁打と打点の2冠王を獲得。チームもリーグ優勝し、日本シリーズでは巨人を相手に4連勝の立役者となりシリーズMVPにも輝いた。
 この年以降から、前年途切れた西武のリーグ制覇は復活し、清原和博秋山幸二らで打ちまくり5連覇を成し遂げ常勝王国西武を確かなものに築きあげていった。
 91年は39HR、92打点でまた2冠王。92年も41HRで3年連続となる本塁打王を獲得した。
 93年、大リーグで新球団となるマーリンズが設立され、デストラーデは招集されてマーリンズの4番打者としてメジャーに復帰した。
 94年に成績不振のため解雇となり、95年に西武に復帰、しかし過去のような活躍はなく家庭内問題もあり、あえなく退団・引退となった。
 現在では、フロリダで実業家として営み、マスターズリーグにも参戦している。


 ピッチャー・デストラーデ
 1995年5月9日のグリーンスタジアム神戸でおこなわれたオリックス戦で、9−0とオリックスに大きくリードされていた8回2死からマウンドにデストラーデが上がり、打者3人に対して、三塁打、四球、四球と一つのアウトも取れずに降板していったことがある。
 試合後、西武の東尾修監督は「ファンサービスでやった」と答えたが、これを機に前年までのオリックスの対西武への苦手意識は吹き飛び、その年のオリックスの対西武戦21勝5敗と大きく勝ち越される要因となった。

 パフォーマンス
 デストラーデは本塁打を打った後、一度立ち止まって正拳を突くようなガッツポーズを見せて、よくファンを沸かせていた。これは、空手から応用したものと本人も話していた。


ドミニカ共和国



アルフォンソ・ソリアーノ
  (96〜98年 広島)  9試合  .118  0HR  0打点

タイトルなし

ドミニカ共和国出身

大リーグ成績
日本球界よりはるかに上(現役中)

 現役メジャー選手で唯一、50本塁打、50盗塁の可能性がある選手。
 広島がドミニカ共和国で開いている「カープアカデミー」でその才能を買われて97年に広島に入団。日本球界では一軍出場機会がわずか9試合と少なくカープファンの中でもその現役時代を知っている人は数少ない。記録も実績もなかった選手。
 98年のオフに契約面で話がこじれて自由契約となり、そのままニューヨーク・ヤンキースへ入団。在籍4年目の02年に大爆発、1番バッターとしては珍しい39本のホームランを記録。03年も38本でシーズン記録となる13本の先頭打者ホームランを放った。
 大活躍のまま、04年にレンジャースのアレックス・ロドリゲスと大型トレードとなり、レンジャースへ移籍。現在ではオールスターでイチローと最多投票数を争うくらいメジャーでも一流の選手となっている。





ドミンゴ・マルチネス
  (97〜98年 西武 99〜01年 巨人)  538試合  .293  104HR  350打点

ベストナイン1回

ドミニカ共和国出身

 通称『マルちゃん』。守備や走塁はまるっきしダメで西武では専ら「5番・指名打者」で活躍していた。
 前年清原和博をFAで放出たため代わりに主軸を打てるバッターを探していた西武に97年入団した。期待されての入団だったがオープン戦では全く打てずに周囲を困らせる。しかしいざシーズンに入ると豪快に打ちまくり指名打者として活躍した。
 98年も2年連続の30HR、90打点の活躍を残していたが守備と走塁面で評価が悪かったためにこの年限りで解雇された。
 99年は当初メキシコでプレーをしていたが、6月に巨人が獲得。慣れないレフトの守備につくと目覚しい活躍を果たし、ケガで離脱していた清原の代わりにファーストも守ることもあり完全に穴をカバーしていた。
 しかし、00年清原のケガが癒え始めると出場機会がめっぽう減り代打へまわる、巨人のベンチを暖めている時のその姿は不思議な光景だった。今考えるとこの年のほうがよっぽど史上最強打線だったと思う。
 そして01年に契約が切れると共に退団となった。
 西武時代には首脳陣が徹底して守備に着かせなかったが、巨人ではよくレフトを守っていた。しかし投手陣やファンからは「マルちゃんをレフトに守らせないで」と抗議が出るほどだった。でも意外にも肩は強くランナーを刺すことが度々あった。


 00年と04年(史上最強)の巨人打線
 00年の打線・開幕戦
1、仁志 2、清水 3、江藤 4、松井 5、高橋由 6、マルチネス 7、二岡 8、村田真 9、上原
 04年の史上最強打線(たしかこんな感じ)
1、仁志 2、清水 3、小久保 4、ローズ 5、ペタジーニ 6、高橋由 7、二岡 8、阿部 9、上原

 超重量打線と騒がれて日本一にもなった00年の巨人打線と長嶋茂雄終身名誉監督から名づけられた04年の史上最強打線とを比較してみた。
 全盛期の成績の総本塁打数を考えれば、たしかに04年はずば抜けている。でも、選手の年齢や長いシーズンを考えるとケガが一番の強敵。
 なんといっても00年には不動の4番松井がいたからこそ周りの強打者が実力以上の活躍を残せた感が大きい。松井が抜けた後の高橋由の成績や活躍を見ればそれがわかる。しかもこのオーダーに名を連ねていないが控えの清原の状態を考えると00年の方が上。(02年はもっと恐ろしい打線だったかも)
 やっぱり主軸がシーズンを通して出場して存在感を見せた分00年の方が相手チームとしては恐怖だった。ということで00年の圧勝。



バルビーノ・ガルベス
  (96〜00年 巨人)  106試合  防御率3.31  46勝 43敗 0S

最多勝利投手1回
1シーズン2本の満塁本塁打(投手として史上初)

ドミニカ共和国・サン・ペドロ・デ・マコリス出身

 ドミニカの暴れん坊。野手顔負けのパワーのあるバッティングは在籍5年間で10本のホームランを記録している。
 ピッチングでは打者の手元で変化する150キロ近いストレート(ムービングファストボール)と右打者の内角をえぐり沈み込むシュートを武器にその他にも多彩な球種をもっており、9回までほとんど球速が落ちないほどのスタミナの持ち主。しかし、一度ランナーが出ると一変し、セットポジションは下手でマウンドで苛つきを隠せない荒い性格だった。
 96年に巨人の春季キャンプに参加し、テスト入団する。当初あまり注目されていなかったが、いきなり16勝でチームメイトの斉藤雅樹と並んで最多勝のタイトルを獲得し、この年のチームのリーグ優勝いわゆる『メイクドラマ』に貢献した。この台湾球界から来たガルベスの活躍のおかげで日本球界が台湾球界に目を向けるきっかけとなった。
 ガルベスと言えばご存知の通り、98年7月31日の甲子園で行われた阪神戦で、微妙なボールの判定に突如苛立ち始め、直後の球を坪井智哉にホームランされて一気に自制が効かなくなった。すると橘高敦本塁球審に目がけてボールを投げつけるという暴挙に出て、そのまま退場。無期限の出場停止処分と罰金を科せられた。この一件では、長嶋茂雄監督も責任を感じ翌日頭を丸刈りにしてグランドに現れた。
 翌99年に巨人と再契約し、球団史上初となる外国人としての開幕投手を勤めた。00年は未勝利に終わり、解雇となった。
 その後は、韓国球界に渡るがそこでも就労ビザでなく観光ビザで入国していたことがわかり問題となっていた。
 とにかくどこへ行ってもトラブルを起こす問題児だったが冷静に普通に投げることができたらもっと恐ろしい活躍をしていたはず。


 『カルシウム、フソク、シテイマセンカ?』
 とっても気持ちのキレやすかったガルベスが牛乳普及委員会のCMに出演していた。
 今思うと、なぜガルベス??ウケ狙い?としか考えられないがCMで、巨人のユニフォームを着て牛乳をもって一言、『カルシウム不足していませんか?』 CMとはいえガルベスに注意されていると思うと見ているこっちがイライラしてしまうCMだった...




パナマ


シャーマン・オバンドー
   (99〜02年、04年途中〜05年 日本ハム〜北海道日本ハム)
             437試合  .294  102HR  314打点

ベストナイン1回


パナマ出身

 97年のシーズン途中に日本ハムに入団。シーズン途中ながらも1年目から打率.306、20HRの活躍で自慢のパワーを発揮。2年目には打率.332、30HR、101打点の活躍でベストナインにも選ばれる。
 02年限りで一度退団するが、04年にアテネ五輪で代表選出された小笠原などの穴を埋めるためにシーズン途中に再契約。
 05年途中に不振を理由に退団。
 00年のチームが『ビッグバン打線』を誇っていた頃に、当時の本拠地であった東京ドームではその怪力のあまり、打ったホームランボールがよく看板広告にぶち当たるので『看板男』とも呼ばれた。




フェルナンド・セギノール

  (04年〜 日本ハム)  479試合  .280  124HR  318打点

日本シリーズMVP1回、本塁打王1回、ベストナイン2回
13球団から本塁打

パナマ出身

大リーグ成績
17HR  40打点

 194cmと長身の『歴代最強スイッチヒッター』。バナナが好物で、やっぱりパナマ運河は大好きらしい。
 02年にオリックスに入団。来日してすぐの5月5日に両打席での本塁打を記録、興奮覚めやらぬ翌6日も連日の両打席本塁打(史上初)をやってのけその存在感をしめす。でもシーズンが終わってみると打率.204、23HR、47打点の成績で低迷し解雇される。
 03年に3Aで活躍を見せ打撃の確実性をつける。
 すると04年に北海道に本拠地を移したばかりの北海道日本ハムに入団。北海道球団誕生元年を祝うかのようにシーズン当初から打ちまくって、打率.305、44HR、108打点の活躍でこの年3冠王の松中信彦と並んでの本塁打王を獲得。チームのプレーオフ進出の原動力となった。05年も不動の4番として30HRと活躍。そしてこの年、東北楽天、交流戦でセ・リーグの6球団から本塁打を記録し、前年消滅した大阪近鉄からも本塁打を放っているため史上初の13球団からの本塁打を果たす。
 06年も四番打者として活躍しベストナインに、日本シリーズではMVPに輝きチームの日本一に貢献する。



フリオ・ズレータ
  (03〜06年 ダイエー〜ソフトバンク 07年〜 千葉ロッテ)
   454試合  .291  122HR  333打点
 

タイトルなし

パナマ出身

大リーグ成績
.247  9HR  36打点

 「パナマウンガーッ!!」でおなじみのパナマの怪力男。3ランが多いことからファンからはミスター3ランとも呼ばれている。
 03年オープン戦で小久保裕紀がケガで離脱してしまったために攻撃力強化のためにシーズン途中からホークスに入団した。
 当初三塁手として獲得したはずだったが内野をとても守れるような状態でなかったために、外野を守ったがあまりにもヒドイ守備でわずか1試合で見切られた。それからはDHで活躍、打つほうは2メートル近い体格から繰り出されるその打球はピンポン球のように飛距離十分に飛んでいき、とんでもない破壊力を持っている。見た目からモノ凄い大きいのを打ちそうなバッテングフォーム。
 来日1年目の03年にチームが日本一になり、実に4人の100打点打者が出る中「100打点カルテット(4人組)という言葉がシリーズでも話題をさらった。ズレーターはシーズン途中入団だったため成績こそ目立つ活躍はなかったが、「オレが開幕からいてれば100打点クインテット(5人組)になっていた」と発言は自信満々だった。
 翌04年、その発言はまさに有言実行だった。打率.283、37HR、100打点の活躍で全ての部門で前年を大きく上回り、2年連続となるシーズン1位に大きく貢献した。しかし、この年から始まったプレーオフ制度のためにリーグ優勝は逃している。
 05年は更なる進化に驚異を感じるほどパワーアップしていた。打率.319、43HR、99打点の松中に次ぐ準3冠王とも言える大活躍で、実にチームの3年連続のシーズン1位を果たした。プレーオフでも1勝2敗と追い込まれての第4戦目では、同点と逆転勝ち越しとなる2本のホームランを打って、その存在感を確実なものに周囲に知らしめた。しかし、この年もチームはプレーオフで敗れてリーグ優勝を逃している。そしてこの年のオフにソフトバンクとの契約やこじれて嫌気をさし、千葉ロッテに2年契約で移籍してプレー中。現在同僚のベニーとは仲が良い。
 来日当初は粗いバッティングのイメージが強かったが、年を追うごとに日本球界に順応していき、そして粘り強くなってきている。その成績や自身の裏には、意外にも毎日小マメにメモを取り相手投手をよく分析するという研究熱心な面がある。これからますます打ちまくりそうな恐ろしい存在。


 パナマ運河!
 試合を決めるホームランを打った後やヒーローインタビューでよく「パナマウンガーッ!!」と絶叫する。前述のフェルナンド・セギノールもそうだが、どうやらパナマ国民はパナマ運河を誇りに思っているらしい。阪神ファンにとっての道頓堀よりも聖地みたい。

 「100打点カルテット」
 03年の日本シリーズ(ダイエー対阪神)で対決前から話題になっていた言葉。
 この年のシーズン終わっての成績でダイエーの松中信彦城島健司井口資仁ペドロ・バルデスの4人が揃いも揃って100打点以上だったことに対してこの名前がつけられた。
 また一方阪神の先発投手陣の井川慶伊良部秀輝藪恵壹トレイ・ムーアの4人が10勝以上をマークしたことに対しても「10勝カルテット」と呼ばれて、カルテット対決シリーズとも騒がれた。
 補足として付け加えると、05年の千葉ロッテはこれを遥かにしのぐ「10勝セクステット」をやってのけた。これは6人組という意味で英語でsextet「六重奏」という言葉。メンバーは清水直行渡辺俊介小林宏之ダン・セラフィニ小野晋吾久保康友のこの年のロッテのアジア初代チャンピオンを支えた強力投手陣からなっている。



プエルトリコ


カルロス・ポンセ
  (86〜90年 大洋)  533試合  .296  119HR  389打点

最多安打1回、本塁打王1回、打点王2回、ベストナイン2回

プエルトリコ出身

大リーグ成績
.161  1HR  5打点

 1年目からいきなり打率.322、27HR、105打点の成績を挙げて、そのヒゲをたくわえた風貌と打ったときに喜びを爆発させる様子から『スーパーマリオ』と呼ばれ、一躍大洋一の人気者となった。87年には最多安打と打点王、88年には本塁打と打点の二冠王に輝いた。
 1998年の横浜ベイスターズ日本一のときに祝福の一報を送った。彼は横浜大洋ホエールズ屈指の助っ人外国人の一人である。
 現在では、アメリカ・フロリダ州のウエリントンに在住、ビール会社の営業マンとして活躍。



レオ・ゴメス
  (97〜02年 中日)  660試合  .293  153HR  449打点

ベストナイン2回

プエルトリコ出身

大リーグ成績
.243  79HR  259打点

 愛称ゴメちゃん、とっても子煩悩なプエルトリカン。
 97年ナゴヤドームの完成と共に来日。1年目から打率.315、31HR、81打点と活躍し、ドラゴンズの4番打者を張っていた。見た目は強面のパワー溢れる外国人・いかにも打ちそうな構えといった印象が強かったが、性格は陽気でかつまじめなクリスチャン。サードの守備ではよく素手でボールをつかみそのまま送球するという野性的なところもあり、阪神相手に六甲おろしを歌ってみせたり、好調時にはひげを伸ばしっぱなすなど個性豊かな選手だった。
 99年には優勝争いをしていた巨人に対してめっぽう強く巨人戦だけで13本もホームランを放った。その年は36HR、109打点の大活躍でチームのリーグ優勝に大きく貢献した。
 プエルトリコにいる家族との時間を大切にしたいとの理由から00年のシーズン限りで退団したが、翌01年の中日の新外国人が振るわないためにシーズン途中からチームに復帰。02年途中、足と膝の故障に悩まされて退団、そのまま引退した。
 春先はプエルトリコにない寒さのために成績は上がらないが、家族が来日する6月頃になると成績が上昇する。本当に家族想いのファンに愛された助っ人外国人だった。




ベネズエラ



アレックス・カブレラ
  (01年〜 西武)  708試合  .308  246HR  605打点

MVP1回、日本シリーズMVP1回、本塁打王1回、打点王1回、最高出塁率1回、ベストナイン2回
シーズン最多本塁打 55HR (日本記録)

ベネズエラ出身

大リーグ成績
.263  5HR  14打点

 
ベネズエラが生んだ超大砲。その放つ打球の飛距離は日本球界至上でもナンバー1と言っても過言でない。
 今の打棒からは想像もつかないがメジャーでは遅咲きの選手。始めカブスに在籍したが粗いバッティングのためメジャーに上がれず、メキシコ、台湾のリーグを経て創設間もないダイヤモンドバックスのマイナーでプレー。そこでわずか53試合で35HRを記録する大暴れでメジャーに昇格。昇格直後も爆発的な活躍を見せたがケガに泣き31試合で5HRに終わる。ケガがなくメジャーに残っていてもモノ凄い打者になっていたに違いない。
 そこで目をつけた西武が01年に獲得。すると1年目の序盤からシーズン70本のペースでホームランを量産し、
タフィ・ローズと最後まで本塁打争いを繰り広げ、49HRの成績を残した。
 翌02年は圧巻だった。シーズンを通して打ちまくり、日本球界に適応してきたバッティングは打率も急上昇、終盤には3冠王も狙える位置につけていた。そして残した数字が打率.336、55HR、115打点で、首位打者こそ日本ハムの
小笠原道大に奪われたが本塁打は日本タイ記録の55本を記録し、打点との2冠王に輝きチームもリーグ優勝、そして自身もMVPを獲得した。
 3年目は開幕出遅れながらも打率.324、50HR、112打点の好成績を残したが、それでも無冠におわった。
 4年目を迎えた04年、オープン戦に手に死球を受け骨折し前半戦を棒に振った。しかし、驚異の回復力と変わらぬパワーを見せつけて6月に復帰以降64試合で25HRを記録(シーズン52発ペース)。このシーズンからパ・リーグに導入されたプレーオフ第1ステージと日本シリーズで共に逆転満塁本塁打を放ち、チームの日本一の原動力となった。
 05年のシーズンには200号本塁打を記録。
ラルフ・ブライアントの記録(578試合)を抜く、538試合で達成し最速記録となった。成績は打率.300、36HR、92打点とその影を落としたが、それでも3割30本を維持するところが別格なバッターである。
 06年3割30本100打点を達成し初の打点王にも輝く。


 実は日本新(アジア タイ)記録!?
 02年、本塁打日本新記録を狙ったカブレラだったが球界の悪い体質による敬遠や自身の本塁打を狙いすぎたバッティングのせいもあって、記録更新とはいかず55本止まりとなった。
 しかし、カブレラは本当はアジア記録となる56本のホームランを打っていた!
 02年5月6日東京ドームでの日本ハム戦で、
クリス・シールバックという投手からこれまた特大の天井弾を放っていた。これがヒットになったためホームランを一本損していた。
 ちなみに05年だけで、超怪力なバッターのカブレラは4本の天井弾を当てている。。。


 推定飛距離190M??
 05年6月3日のインボイスSEIBUドームで行われた横浜戦で、
三浦大輔から放ったとてつもない打球は、レフトの天井屋根に当たって左中間にポトリと落ち、認定本塁打となった。その推定飛距離が190Mと言われているから甲子園でも楽々場外ホームラン!?広島市民球場の両翼(91,4m)なら2個分の本塁打であった。



アレックス・ラミレス
  (01年〜 ヤクルト)  838試合  .293  182HR  630打点


最多安打1回、本塁打王1回、打点王1回、ベストナイン1回

ベネズエラ・カラカス出身

大リーグ成績
.259  12HR  58打点

 明るくひょうきんな性格でホームラン後のパフォーマンスで有名。
 01年ヤクルトに入団するとロベルト・ペタジーニの影で29HRを放ち、チームの日本一に貢献。02年もペタジーニについでの2番目外国人という印象が強かったが、03年にペタジーニが巨人へ移籍して4番に座るようになって本領を発揮しだした。
 03年は打率.333、40HR、124打点で3冠王でもおかしくない成績でタイロン・ウッズと並ぶ本塁打王、ダントツの打点王で2冠、最多安打、ベストナインのタイトルを獲得した。
 04,05年も4番打者としてそれなりの成績を残しているが、選球眼が悪く出塁率が低いところが欠点。


 モノマネパフォーマンス

 ラミレスはホームランを打った後にベンチ横のカメラに向かってモノマネパフォーマンスをすることで有名。
 そのレパートリーも年々増えていき、加藤茶のギャグをもじった『ラミちゃんペッ』志村けん『アイーン』ダンディー坂野『ゲッツ』を連続に繰り出してフレームアウトしていくオールパクりのネタをもっている。
 ヒーローインタビューでは、お笑いコンビ・レギュラーのあるある探検隊シリーズのまま『ハイッ!ハイッ!ハイハイハイッ!』つば九郎君の肩をかりて決めポーズをとってファンを沸かせていた。
 06年には大木こだまの『チッチキチ〜』も披露。



エディ・ディアス
  (99〜02年 広島)  430試合  .279  65HR 220打点

ベストナイン1回

ベネズエラ出身

 99年に広島に入団。来日当初は強肩でサード・ショート・セカンドが守れて守備の面での評価が高かった。1,2年目はそれほど出場機会は多くなかったが、3年目の01年にバッティングでも奮起。同僚の
ルイス・ロペスと共に3割30本を記録、ベストナインにも選ばれる活躍を見せる。でも翌02年には平凡な成績で退団した。その後韓国、メキシコのリーグを渡り歩いている。
 シーズンオフにはベネズエラで牧場経営を行うなど風変わりな一面も持っていた。02年のシーズン前には
牧場の牛が100頭増えて300頭も飼育するまでになった



ロべルト・ぺタジーニ

  (99〜02 ヤクルト 03〜04年 巨人)  756試合  .322  223HR  594打点

MVP1回、本塁打王2回、打点王1回、最高出塁率2回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞3回??

ベネズエラ出身

 愛妻家で有名なベネズエラの大砲。来日当初は野球での活躍よりも25才も年の離れたオルガ夫人との仲が注目された。
 99年にヤクルトへ入団。選球眼が良くどんなコースのボールでもうまく打ちこなし、流して打ってもホームランにしてしまうパワーの持ち主。1年目から打率.324、44HR、112打点の大活躍で松井秀喜をおさえて本塁打王に輝く。
 00年も打率.316、36HR、96打点の成績を残し、01年には打率.322、39HR、127打点の申し分のない成績でチームをリーグ優勝・日本一に導き、自身もMVP・本塁打と打点の2冠王を獲得した。
 02年も打率.322、41HR、94打点という安定した成績を残し文句のつけようがなかったが、このシーズン死球を受ける数が増えてきたことに問題が出てきた。死球が多いということは清原和博を見てもわかるように強打者であることの証。しかし、ペタジーニはこの死球数の多さに報復しないチームに不信感を抱き、ゲーム中に無断帰宅をするなどワガママな面を見せるようになった。
 するとその年限りでヤクルトを退団。セ・リーグ4球団が獲得に乗り出し激しい争奪戦が繰り広げられたが、最後には群を抜いて条件提示した巨人が2年14億の大型契約を結んで獲得した。

 03年、巨人としてはメジャー移籍した松井の穴を完全に埋める役割としてペタジーニを獲得したが、一塁には清原がすでにいたためペタジーニにライトを守らすことになった。そして迎えた開幕戦、対戦相手の中日のアレックス・オチョアの凄まじい本塁返球を見せつけられる中、ランナーを2塁においてライトのペタのところへ打球が!誰もが息を呑んで見守る中ペタジーニは全力でバックホーム!!これがとんでもない返球となり、開幕戦の負けと外野守備陣の不安を決定づけることとなった。この年は故障もあって来日以来初めて規定打席に到達することなく終わったが、意外にも打率.322、34HR、81打点の好成績を残していた。
 堀内政権になった04年には清原との一塁の併用となり、膝のケガもあって打率も3割を切り構想外となりその年限りで退団した。
 05年8月にはレッドソックスでメジャーに復帰し4番も勤めている。


 オルガ夫人
 愛妻家で有名なペタジーニ。その奥さんも有名、二人の年齢差は25才も離れていて出逢い方が凄い。初めての出会いは友達の家に遊びに行ったときに知り合い、友達の母親と結婚した。その仲の良さは報道陣の前でも熱い抱擁とキスの嵐で証明済みで熱愛ぶりがわかる。日曜の朝に放送しているサンデーモーニングの御意見番では「仲のいい2人のVTR」を見て、VTRが終わるやいなや大沢親分が『こんなものは喝だぁーっっ!!』と怒りをぶちまけていた。

 ペタキャノン
 03年の開幕戦でのバックホームのこと。




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