韓国、台湾

韓国


李鍾範(イ・ジョンボム)
  (98〜01年 中日)  311試合  .261  27HR  99打点
  

タイトルなし

大韓民国・光州市出身

大リーグ経験なし

韓国リーグ成績(〜97年まで)
984試合 打率.316  172HR 524打点 444盗塁
MVP4回、首位打者2回、最多安打4回、最高出塁率1回、盗塁王3回、最多得点3回

 俊足・巧打で韓国球界のスターとして活躍し『韓国のイチロー』とも呼ばれていた。
 93年に韓国のヘテ・タイガーズに入団すると、2年目の94年に首位打者・盗塁王に輝き、宣銅烈とともにタイガーズの主力選手として活躍した。

 98年に中日へ入団、その時の移籍金は4億5000万円、推定年俸は8000万円だった。ここでも宣と同僚として活躍した。
 開幕からレギュラーとして試合に出場し、積極果敢な1番バッターとして活躍していたが6月に死球を受けて右ひじを骨折して戦線離脱。シーズン後半には戻ってきたが積極的な打撃は影を潜めていた。もともとショートを守っていたが失策が多く、ケガをきっかけに外野手に転向。
 99年のリーグ優勝の際も多く出場していたが、外国人枠に入り切れずに出場機会が減った01年のシーズン途中に退団。
 古巣のヘテ・タイガースに復帰し、現在では起亜タイガースで活躍中。




李承Y(イ・スンヨプ)
  
(04〜05年 ロッテ 06年〜 巨人)  217試合  .251  44HR  132打点

タイトルなし
シリーズ優秀選手


大韓民国・大邱出身

大リーグ経験なし

韓国リーグ成績
1143試合 .305 324HR 948打点
MVP5回、本塁打王5回、打点王4回、最多安打1回、ゴールデングラブ賞6回 など

 通称『アジアの大砲』、韓国の国民的スター。シーズン本塁打数56本のアジア記録保持者
 慶北高の頃は頼れるエースだった。95年に三星ライオンズへと入団、そして韓国球界入りは意外にも投手でのプロ入りだった。しかし高校からのヒジの怪我もあってすぐに一塁手に転向する。この打者への転向がアジアを代表するバッターを生み出すきっかけとなった。
 すると3年目の97年には本塁打と打点の2冠王に輝きMVPを獲得すると、そこから韓国球界の打撃記録をことごとく塗り替えていった。99年に54HRの当時の韓国記録を更新し2度目の2冠王とMVPを獲得する。
 00年に行われたシドニー五輪では、日本球界のエースである松坂大輔から予選リーグで本塁打を放ち、3位決定戦では同じく松坂から決勝タイムリーとなるヒットを放ち韓国代表の銅メダル獲得に大きく貢献した。
 01年から03年まで3年連続の本塁打のタイトルに輝く、03年はとくに、それまでの王貞治、タフィ・ローズ、アレックス・カブレラが持っていたシーズン本塁打数55HRを抜く56HRを記録し、アジア記録で塗り替えた。
 03年のオフにメジャー挑戦を表明して、その動向に注目が集まった。しかし、メジャーからのオファーはどこからもなく韓国球界に残ると思われたが日本の千葉ロッテ・マリーンズへ入団を決めた。

 04年迎えた日本球界1年目、周囲の評価ではパワーはともかくバッティング面で日本球界に対応できるのかとずっと疑問視されていた。
 この年はちょうど2度目のボビー・バレンタイン政権の1年目だったこともあって注目を集めていた。李は開幕戦での4番スタメン出場を果たし、初打席で初安打初打点を放ちその存在感をあらわにした。このときの相手も松坂だった。
 しかし、他球団と一通り顔合わせをすると内角低めの落ちる球に弱いことがわかり、極度の打撃不振に陥った。そしてわずか2ヶ月足らずで人生初の二軍降格を味わい、そのまま奮起することなく規定打席にも満たない散々な結果におわった。一塁の守備位置争いでは福浦和也と比べても大きく劣ってしまい、レフトを守らされるかDHにつくことも多かった。
 05年オープン戦の貧打により開幕二軍スタートとなる。4月早々に1軍にあがると下位打線にレフトかDHについて定着するようになるが、シーズン1位だったソフトバンク相手には完全に抑えられて手が出ない状態で、左投手に対してめっぽう弱く左投手が先発の時にはベンチウォーマーが多かった。30発を放ってチームの本塁打王ではあったが試合の決まった場面のソロホームランが多く、打率は下から数えて3番目だった。
 しかしチームがリーグ優勝して日本シリーズに出場すると、短期決戦でなぜか勝負強さを発揮。4試合で3HRを放つ活躍で優秀選手賞にも選ばれた。
06年も残留の予定で話し合いが進めれていたが、年が明けると一変して李側が自由契約を希望して、「常時試合に出場」「07年にメジャー挑戦」という李の希望と、当時清原和博江藤智を放出して一塁手を探していた巨人との双方の意見が重なって、巨人への移籍が決まった。
 そして06年巨人の70代四番をまかされ、.323、41HR、108打点という来日以来最高成績で文句なしの活躍を見せる。現ヤンキースの井川慶に対して強く、通算400号も記録している。



 愛称『スンちゃん』
 李はスンヨプという名前からロッテの同僚にスンちゃんと呼ばれて親しまれている。これはただスンヨプの愛称というだけでなく韓国語で「ちゃん」は大将や隊長という意味があり、「スン兄貴」というニュアンスも含めて本人も気に入って呼ばれている。
 ちなみに韓国での愛称は「ライオンキング」である。

 400号到達
 その29才11ヶ月での記録達成は、王貞治・アレックス・ロドリゲスについで史上三番目の早さ。




具臺晟(グ・デソン)
  (01〜04年 オリックス)  110試合  防御率3.88  24勝 34敗 10S

タイトルなし

大韓民国・大田広域市出身

大リーグ成績
防御率3.91  0勝 0敗 

 シドニー五輪で日本代表の前に2度も立ちはだかり、韓国代表の銅メダルに貢献した投手。
 大卒後、韓国のピングレ・イーグルスで抑え投手として活躍。シドニー五輪での活躍が認められて、01年オリックスに入団。

 当初は抑えとして起用されていたが先発に転向。02年には勝ち星にこそ恵まれなかったがチームメートの金田政彦に次ぐリーグ第2位の防御率をおさめる。この年オリックスは防御率1,2位の投手を抱えながら貧打のために最下位だった。
 04年近鉄とオリックスの合併の際に、メジャー挑戦が決め退団。05年にニューヨーク・メッツに移籍したが、マイナー落ちし解雇となった。




宣銅烈(ソン・ドンヨル)
  (96〜99年 中日)  162試合  防御率2.70  10勝 4敗 98S


最多セーブ1回

大韓民国・光州広域市出身

大リーグ経験なし

韓国リーグ成績
367試合 防御率1.20  146勝 40敗 132S 
MVP3回、最優秀防御率8回、最多勝4回、最多奪三振5回、最多セーブ2回

 韓国球界史上最高の投手とも言われる。日韓でともに活躍した韓国の英雄。中日ファンからの愛称はアンパンマン。
 150キロを超えるストレートとほとんど区別のつかない2種類の高速スライダーが大きな武器。コントロールも良く、打者に向かっていく勢いのある投球が魅力的だった。
 高校時代からその活躍は目まぐるしく、光州一高で全国大会優勝。高麗大学校で世界青少年野球選手権で優勝。韓国の実業団野球の韓国化粧品に入るとそこでも世界アマチュア野球選手権で優勝かつMVP。本来なら実業団出身の選手は2年間プロ入りできないが特例で、85年のシーズン後半からヘテ・タイガーズに入団、その年に最優秀防御率を獲得。
 韓国球界では上記の通りに輝かしい経歴と成績を残して日本球界入りを表明。

 96年に中日へ入団。すると2年目の97年に当時の日本記録となる38セーブをマークし最多セーブを記録する。(この年の最優秀救援投手は佐々木主浩)
 99年には守護神としてリーグ優勝に貢献し、メジャーのレッドソックスからの誘いを断って、現役を引退した。

 指導者としても活躍していて、03年に中日の2軍コーチを経た後に、04年に三星ライオンズに主席コーチを受け持つ。
 05年には監督に就任してチームをリーグ優勝に導いてアジアシリーズに出場。元三星ライオンズ出身の千葉ロッテに在籍していた李承Yとの対決が注目されたことは記憶に新しい。



台湾


郭源冶(かく げんじ)
  (81〜96年 中日)  496試合  防御率3.22  106勝 106敗 116S

MVP1回、最優秀防御率1回、最優秀救援投手2回

台湾・台東市生まれ、少数民族アミ族出身

大リーグ経験なし

 兵役を終えた後に81年のシーズン途中に中日へ入団。キレのあるストレートと変化球を織り交ぜた投球で、2年目にはローテーションピッチャーとして活躍。3年目からは4年連続2桁勝利をあげるが、負け数も毎年同じぐらい並ぶためその資質に比べると物足りない成績だった。
 87年にそれまで中日のストッパーとして活躍していた牛島和彦がロッテの落合博満との大型トレードで出て行ったため、代わりとなるストッパーとして指名されてのが郭だった。抑えに抜擢されるとその才能を一気に爆発させ大活躍する。この年の最優秀救援投手に輝くと、翌88年には37セーブの活躍で2年連続となる最優秀救援投手となりチームをリーグ優勝に導きMVPも獲得した。
 89年には日本に帰化し、90年から先発に戻ると、91年に13勝をあげる。92年の開幕投手も勤め、93年にまたリリーフ、94年に最優秀防御率のタイトルを獲得し、96年のシーズンで日本球界を引退した。
 引退試合は翌97年のナゴヤドームが完成したオープン戦で行われて、イチロー(小さい頃からの中日ファン)をライトフライに抑えた。
 その後も台湾のリーグで活躍し、99年のシドニー五輪の予選大会では42歳にして台湾代表として出場した。
 引退後はレストランを経営し、マスターズリーグにも参加している。
 先発、リリーフとそれぞれの役割で活躍を見せプロ野球史上でも6人しか達成していない100勝&100セーブを記録したバランスの良い投手だった。


 郭ダンス
 88年郭がリリーフ全盛期の頃にマウンド上で見せる派手なガッツポーズを郭ダンスと呼ばれた。

 サヨナラ打
 投手として100勝、100セーブを記録していてその投球はもちろん牽制や守備、そしてバッティングでも非凡な才能を見せた。
 88年5月13日の巨人戦ではサヨナラホームランも記録している。





郭泰源(かく たいげん)
  (85〜97年 西武)  272試合  防御率3.16  117勝 68敗 18S


MVP1回、ノーヒット・ノーラン1回、最高勝率2回、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞2回

台湾・台南市出身

大リーグ経験なし

 通称『アジアのオリエントエクスプレス』
 84年のロス五輪で台湾代表として活躍し、メジャーや日本の各球団から誘いを受けて85年に西武に入団。
 1年目から日本ハム戦でノーヒット・ノーランを記録し、3年目には二桁勝利をマーク。91年には15勝を挙げ(そのうちの7勝を優勝争いをした近鉄相手)MVPにも輝く。
 150キロ超のストレートを武器に、肘を痛めた頃から球速こそ落ちたがスライダー主体の変化球投手として西武の黄金時代を支えた。
 96年オフには外国人選手として初めてFA権を獲得し、外国人枠から外れた。
 97年にはシーズンを通してずっと1軍出場こそなかったが西武球場で引退試合も行われた。






許銘傑(シュウ・ミンチェ)
  (00〜 西武)  125試合  防御率3.??  34勝 25敗 0S  

タイトルなし

台湾出身

大リーグ経験なし

 『台湾の松坂』と称されて来日。メガネがとっても似合う。
 00年に来日。1年目こそ成績もそこそこだったが、2年目の01年に大ブレイク。シーズン序盤はもともと中継ぎを担当していたがある時を境にメガネをかけるようになった。すると、この年の西武先発投手陣で唯一シーズンを通してローテーションを守る活躍をみせ勝ち星も一気に二桁の11勝をあげる。150キロを超す剛速球にキレのいい変化球、そしてコントロールが抜群だった。周囲はメガネ一つで変わるものだなと驚き。
 翌02年もローテーションピッチャーとして活躍しチームのリーグ優勝を支える。
 03年以降は不本意な成績でシーズンを送っている。






張誌家(チャン・ズージャ)
  (02年途中〜 西武)  63試合  防御率3.81  26勝 19敗 1S
  

タイトルなし
28イニング連続奪三振 (日本記録)

台湾出身

大リーグ経験なし

 台湾生まれの松坂世代。台湾のエース。
 兵役を終えた02年の途中から西武へ入団。当初は育成していく予定だったが予想以上の能力に1軍に抜擢。ケガで戦線離脱していた松坂大輔の穴を大きく埋める役割で同じ台湾出身の許銘傑と活躍し、シーズン途中ながらも10勝をあげてチームのリーグ優勝に貢献。28イニング連続奪三振の日本記録を打ち立てる。投球はまさにエース級で140キロ台後半の速球と同じフォームから繰り出されるチェンジアップを武器に打者を打ち取る。
 03年は1年目の成績に満足して練習をせずに来日、キレも落ち打者に研究しつくされて防御率も5点近くにはねあがり、なんとか勝敗数を五分にもっていった。しかし、札幌ドームでおこなわれたアテネ五輪の予選では台湾代表として活躍し韓国、中国をおさえて五輪出場を決めた。
 04年はシーズン序盤から好調で、前半戦だけで7勝をあげたが、アテネ五輪で抜けると調子を落としけっきょく9勝止まりにおわった。うわさではアテネ五輪後は一切練習しなかったという。
 05年は肩を故障して1軍出場すらなかった。
 06年以降は、ポスティングシステムでメジャー挑戦した森慎二(現デビルレイズ)と巨人に移籍した豊田清の代わりとしてリリーフにまわる予定。





呂明賜(ロ・メイシ)
  (88〜91年 巨人)  113試合  .260  18HR  49打点
  

タイトルなし

台湾出身

大リーグ経験なし

 アマチュア野球の台湾味全から88年に巨人入り。入団当時はウォーレン・クロマティビル・ガリクソンに次ぐ3番目の外国人として出番はなかった。だが6月にクロマティがケガで離脱して出番がまわってきて1軍に昇格すると、来日初打席で初ホームランを放ち、10試合で7ホーマーと活躍し呂フィーバーを巻き起こす。しかし、シーズン後半になると疲れと内角攻めに苦しみ17本塁打におわる。独特な前傾姿勢のバッティングから放たれる豪快なホームランを見て『アジアの大砲』とも称された。
 翌89年に監督が変わると出場機会に恵まれず、91年に退団した。
 その後、台湾球界に戻り追放問題にも遭ったが、現在は郭泰源が監督をしている誠泰の打撃コーチを務めている。




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