アメリカ
アダム・リグス
(05年〜 ヤクルト )
249試合 .299 53HR 138打点
タイトルなし
アメリカ・オハイオ州出身
大リーグ成績
. HR 打点
94年にドラフト22巡目でドジャースに入団。その後、パドレス・カージナルス・エンゼルスと渡るがそれほど成績は残していない。
04年のオフに、ヤクルトからのオファーを受けて来日。05年の一年目には、阪神の絶対的セットアッパー藤川球児から決勝本塁打を放ち藤川のその年唯一の黒星をつける。
そして、05年には2番打者として39HRを放ち「恐怖の2番打者」とも呼ばれた。
アレックス・オチョア
(03〜06年 中日 07年〜 広島) 550試合 .283 75HR 309打点
ゴールデングラブ賞1回
アメリカ・フロリダ州マイアミ出身
大リーグ成績
.279 46HR 261打点
中日ファンの中では『サンダービーム』と称され、イチローの「レーザービーム」と肩を並べるほどの強肩の持ち主。
02年オフ、中日に入団予定だったミラーがフラリとレッドソックスへ行ってしまったため、代わりとなる外国人野手として注目を浴びて急遽来日が決定、中日へと入団となった。8年間のメジャー生活では9つの球団を渡り歩き、エンゼルス時代にワールドシリーズも制覇している経験の持ち主。
来日1年目の03年、東京ドームでの巨人との開幕戦では、度重なる外野からの凄まじい返球を見せつけて周囲や全国の野球ファンを圧倒させる。一方、同じ試合でライトを守っていた巨人期待の大型外人外野手ペタジーニが見せたバックホームはその年から始まる巨人の低迷を象徴するかのような大暴投となり、これもある意味全国の野球ファンをあっと驚かせた。この開幕戦だけでも中日外野手の他球団の守備力の違いを見せつけた。
打撃面はチャンスこそあまり打たないが、土壇場の場面では本塁打を放つ印象がある。象徴的なのが05年の横浜との開幕戦でセ・リーグ初となる開幕戦サヨナラ満塁ホームランを三浦大輔から放ったシーン。04年には不調の福留孝介に代わって一時4番も勤めた。
06年も優勝に貢献したが、シーズン終盤に肺炎で出場機会が減り日本シリーズの最後のバッターとして中日を退団した。
07年はレッドソックスとマイナー契約をするが、6月に広島への入団が決まりプレー中。
アロンゾ・パウエル
(92〜97年 中日 98年 阪神) 710試合 .313 116HR 397打点
首位打者3回、最多安打1回、ベストナイン4回
アメリカ・カリフォルニア出身
外国人初の3年連続首位打者。
92年の途中から中日に入団。規定打席には達しなかったが3割をマークし、94〜96年の3年間にわたって首位打者に輝く。160m級のホームランを打つかと思えば、変化球をうまくうつという巧みなバッティング技術に優れた。
しかし、チャンスに弱いという声もあり97年に低迷して阪神に移籍。98年も思うような成績は残せず退団。
アンディ・シーツ
(03〜04年 広島 05年〜 阪神) 550試合 .299 86HR 320打点
ゴールデングラブ賞2回
アメリカ・ルイジアナ州出身
大リーグ成績
.248 4HR 22打点
03年に守備面での高い評価を受けて広島に入団。その堅実な守備はもちろん打撃面でもシュアなバッティングを見せてカープの4番をも勤めた。日本野球への適応力の凄さは必見で、同僚のラロッカなどにも大きく影響を与えている。
04年のオフに自由契約となり、05年から阪神へ入団。守備位置は鳥谷敬の育成もあって広島時代のショートからファーストへ転向。しかし、その守備力は変わるどころか数々のファインプレーや確実な捕球を見せてこの年のゴールデングラブ賞を獲得、タイガースの内野守備の強化にもつながった。バッティングは、後半戦の巨人戦で1試合3HRを記録してからは大振りが目立ち少しムラが出始めたがそれでも3割近い打率を残している。
05・06年ともにゴールデングラブ賞に輝いている。
ウォーレン・クロマティー
(84〜90年 巨人) 779試合 .321 171HR 558打点
MVP1回、首位打者1回、最多安打1回、最高出塁率1回、ベストナイン3回
アメリカ・フロリダ州出身
大リーグ成績
.281 61HR 391打点
巨人でファンに最も愛された外国人選手。
もとは現役バリバリの大リーガー。FA宣言をして王監督就任一年目の巨人に入団。メジャーでは中距離打者だったが球場の狭い日本に来て1年目から35HRとホームランを量産、3年目にはバースの影に隠れながらも打率.363、37HR、98打点と3冠王に輝いてもおかしくない成績を残す。
89年も開幕当初からヒットを量産、一時は日本球界初の4割打者の期待がかかったが、後半に失速し.378に終わった。しかし、それでも自身初となる首位打者を獲得。最多安打もとり、チームも優勝したため、シ−ズンMVPに選ばれた。この時の打率.378はバース(86年)、イチロー(00年、94年)に次いでのシーズン打率歴代4位に位置している。
90年のオフに引退宣言をして退団。しかし翌年大リーグのロイヤルズで一年間プレ−してから現役引退した。
そして、なぜか07年に急遽日本のプロレス界に参戦。。。御年53才。『ハッスルエイド2007』にてタイガー・ジェット・シンと戦い、勝利をおさめる。必殺技は『ホームラン・チョップ』『殺人スライディング・キック』
☆パフォーマンス・話題に富んだ選手
バッティングフォーム
極端なクラウチングスタイルから打ち出すバッティングフォームが話題を呼んだ。全国の多くの野球少年がマネをしてみせた。往年の頃には普通の打撃スタイルに変わっていた。
病院からかけつけ満塁弾
86年10月2日のヤクルト戦で頭に死球を受けて病院に運ばれたが、翌日13日病院を抜け出し、ベンチ入りして代打で試合に出場し、勝ち越し満塁本塁打を打った。
愛されたパフォーマンス
打てばスタンドのファンにガッツポーズを見せて、守備につくときに観客席の巨人ファンと満面の笑顔で『万歳三唱』のパフォーマンスを披露。
ホームランを打ったときにダイヤモンドを一周する際に、自分のヘルメットを指差し『ここが違うんだよ』と挑発的なパフォーマンスを見せてファンを沸かせた。これに対して、大洋の遠藤一彦がクロマティーを三振にとった時に同様のポーズを仕返したという逸話もある。
守備は怠慢
ただのフライを超ファインプレーに変えてしまうその守備範囲は極端に狭かった。
87年の西武との日本シリーズ第6戦が象徴的。
2回裏にフライ後の送球処理が悪く、決して足の速いと言えない2塁ランナーの清原をホームに生還させ、
8回裏には、秋山のセンター前ヒットで1塁ランナーの辻を(ヒットエンドランもなかったのに)ホームインさせた。
敬遠球をサヨナラ
広島戦で、敬遠球を無理やり打ってサヨナラヒットにした。
バントでホームラン
某ファミコンゲームでバントの構えにしていてもホームランを放ってしまう。恐ろしいパワーの持ち主として設定されている。
カルロス・ミラバル
(00〜05年 日本ハム〜北海道日本ハム) 180試合 防御率4.32 39勝 38敗 37S
タイトルなし
アメリカ・ニュージャージー州出身
00年に日本ハムに入団。1、2年目はストッパーとして19,18セーブを記録したが三振がとれるピッチャーでなかったために02年から先発に転向。
02年は後半戦をケガで棒にふるが9勝6敗と勝ち越すと、03年には開幕投手を勤めて16勝をあげる活躍を果たす。
04年も11勝をマーク。05年も2度目となる開幕投手を任されるがケガを理由にシーズン途中に解雇される。
いい時は、勢いのあるピッチングで打者を抑えるが、悪い時の悪いなりようの踏ん張りがきかず勝ち星の割には防御率が高かった。
しかし6年間日本ハムで先発に抑えに活躍してきたその実績は功労者に値する。
キップ・リー・グロス
(94〜98年 日本ハム) 124試合 防御率3.60 55勝 49敗
最多勝2回
アメリカ・ネブラスカ州
94年のシーズン途中から入団。当初はシーズン早々に解雇した外国人の代役として、大した期待もされていなかったが1年目に6勝12敗と大きく負け越しはしたが、一年間しっかりローテーションを守り抜き翌年もファイターズと契約した。
すると2年目にブレイク。打者の手元で微妙な変化をみせるストレートによってバッターを翻弄、16勝13敗の活躍で見事外国人としてはリーグ初の最多勝投手に輝く。3年目も17勝9敗で2年連続の最多勝。4年目も13勝11敗で3年連続二桁勝利を記録する。
しかし、5年目となる98年にはシーズン終盤にあげた3勝止まりでその年限りで解雇。その後、レッドソックッスでメジャー復帰を果たす。
独特なお調子者
本人の自論では「水はお腹に悪いから」という理由で、コーラを飲みまくるというヘルシー思考の持ち主だった。
練習に遅刻した言い訳が「歯医者に行っていたら屋根が抜けた」と言い、小学生的な発想の持ち主という面も覗かしてくれた。
骨折してても勝利
97年夏、前日に酔っ払いにからまれ蹴とばされて、肋骨が折れていたにも関わらず、翌日先発で無失点の好投をして勝利投手となった。
グレゴリー・ブーマー・ウェルズ
(83〜91年 阪急〜オリックス 92年 ダイエー) 1148試合 .317 277HR 901打点
84年3冠王、MVP1回、首位打者2回、本塁打王1回、打点王4回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞2回
シーズン34併殺(日本記録)
落下地点確認ホームランの日本最長記録(162m)
アメリカ・アリゾナ州出身
大リーグ成績
.228
ご存知、外国人初の3冠王。ブーマーという名前は『ブームを呼ぶ男』という意味からきた登録名。
ブルージェイズ、ツインズを経て来日1年目こそ、そんなに振るわなかったが2年目に大爆発!シーズン中、指のケガもあってコンパクトなスウィングに変えたところホームランを連発、そのまま3冠王に突っ走る成績でシーズン終盤にくると『外国人に3冠王をとらせてなるものか』と明らかな阻止行為が多発。そんな逆境の中でも打率.355、37HR、130打点の成績で見事外国人初となる3冠王そしてMVPに輝く!
この時の巨人のオーナーが『巨人の入っていないパ・リーグでの3冠王など意味がない』発言。今の時代なら相当話題を呼んだにちがいない。
なお、死球を受けてマウンドに向かうシーンは「珍プレー好プレー」でもよく取り上げられ、そのシーンを使った湿布薬のCMにも起用された。落下地点認定ホームランの日本最長記録保持者でもある。(162m)
最も彼の凄さを示すのエピソードが、彼が同じ3冠王をとった外国人のバースに言った言葉。 『俺がバースに3冠王を獲りやすくしてやったんだ。外国人が3冠王を獲るのに日本人の免疫が出来ていたから』 あれだけの成績を残した彼こそが言える凄い傲慢な発言ではあるが、タフィとカブレラが王監督の本塁打数に並んだ時の扱いを見ればブーマーの発言は頷ける。
グレッグ・ラロッカ
(04〜05年 広島 06年 ヤクルト 07年〜 オリックス)
305試合 .305 76HR 220打点
最高出塁率1回、ベストナイン賞1回
12球団から本塁打(大阪近鉄からはないため)
アメリカ・ニューヨーク州出身
大リーグ成績
. HR 打点
満塁に異様に強い。勝負強いバッティングと内野のどこでも守れるユーティリティープレイヤー。
パドレス・インディアンスを経て、04年に広島に入団。するといきなり.328、40HR、101打点と最高出塁率(.425)とベストナインのタイトルを獲得。05年はケガに泣かされて広島から戦力外をうけて翌年ヤクルトに入団。ヤクルトでも膝の故障のため戦線離脱し、07年からはオリックスでプレー。
グレン・ブラッグス
(93〜96年 横浜) 404試合 .300 91HR 260打点
ベストナイン1回
29試合連続ヒット
33打席連続ノーヒット
アメリカ・カリフォルニア州出身
大リーグ成績
.257 70HR 321打点
レッズがワールドシリーズを制した時の4番打者。93年に横浜に入団し最初全く打てなかったが、29試合連続ヒットを記録をかわきりに一時は球団史上初の3冠王も狙える位置につけた。しかしある日突然階段からこけて指を骨折し、そのままシーズンを終えた。
94年はうっぷんを晴らすかのように大爆発!打率.315、35HR、91打点の好成績をあげる。チームの4番として同僚のロバート・ローズとともにベイスターズを支えた。96年に成績を落としその年オフに退団、帰国した。
その風貌は恐ろしくまさにロボコップ、乱闘もたびたび起こし退場数は3回を数える。しかし、根はとても紳士なクリスチャンで阪神大震災のときにはオフ中アメリカから寄付金も送っている。
29試合連続ヒット
この29試合連続ヒットの華やかな記録の陰で不本意な記録や出来事も残っている。
来日1年目メジャー屈指の4番打者も日本球界に慣れるのに苦労した。5月3日の阪神戦から実に33打席連続ノーヒットが続き解説者からも批難をあびたが、13日のヤクルト戦でライト前にポトリと落ちるラッキーなヒットを境に、ヒットを量産バカスカ打ち出した。そして、6月2日から29試合連続のヒットを続ける!このまま日本記録の33試合連続を抜くかと思われたが不運にも階段から落ちて骨折し、記録もシーズンも棒に振った。
ジャック・ハウエル
(92〜94年 ヤクルト 95年 巨人) 405試合 .291 100HR 272打点
MVP1回、首位打者1回、本塁打王1回、ベストナイン1回、サイクルヒット1回
シーズンサヨナラ本塁打 5本 (日本記録)
アメリカ・アリゾナ州
大リーグ成績
.239 108HR 338打点
92年来日1年目に爆発した。首脳陣・ファンの期待に見事応え打率.331、38HR、87打点の首位打者・本塁打王の2冠王に加え広島戦でサイクルヒットの活躍でチームのリーグ優勝に大きく貢献し、MVPに輝いた。
93年にはシーズン5本のサヨナラホームランを記録。今までの記録の王ですら3本とその勝負強さを発揮、ヤクルトのV2に貢献した。95年にFA宣言をしていた広沢克己とともに巨人へと移籍、そこそこの成績を残していたが離婚訴訟のため7月に帰国、そのまま退団となった。帰国後はメジャー復帰して00年に現役を引退した。
セシル・フィルダー
(89年 阪神) 106試合 .302 38HR 81打点
タイトルなし
アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身
大リーグ成績
本塁打王2回、打点王3回(すべて日本球界を去った後のタイトル)
.255 319HR 1008打点
数少ない日本で育ってメジャーで活躍した外国人選手。
それまでのメジャー成績は4年間で.243、31HR、84打点と振るわず出場機会を求めて89年に来日。するといきなり打つは打つ。その年38HRでホームラン争いの断トツのトップに立っていてタイトル獲得も間違いないと思われたが、9月に自分で地面に叩きつけたバットにより指を骨折しいきなり勝手に帰国、本塁打王を逃す。オフに球団と契約が折り合わずに退団し再び来日することはなかった。
骨折の傷も癒えた翌年デトロイト・タイガーズにメジャー復帰するや、1年目から打率.277、51HR、132打点の活躍を見せて本塁打王と打点王に輝く。90、91と本塁打王、90、91、92と打点王を獲得。そして一時はメジャー最高年俸にまでのし上がる。それ以降の日本帰りの選手の価値が見直されるようになった立役者でもある。
そんな華々しい野球人生を送ったフィルダーは、98年の現役引退直後の99年に「トランプカジノの店で数時間のうちに58万ドル(約6,380万円)を使った」のを手始めにギャンブルで莫大な借金を抱え、失踪してしまった。
タイロン・ウッズ
(03〜04年 横浜 05年〜 中日) 645試合 .293 170HR 437打点
本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン1回
アメリカ・フロリダ州出身
背番号の上記の登録名は『T・ウッズ』。たぶんゴルフ界のタイガーを意識しているのだと思う。
03年に韓国球界から日本にきて横浜に入団。来日するやいなや、1年目から40発を放ち本塁打王を獲得。
2年目はさらに45HRで2年連続本塁打王。右にも大きいのが打てる文句なしの長距離砲。しかし、オフに球団と契約がこじれて退団、すかさずその年リーグ優勝を果たしていた中日が獲得。
中日に行ってもその打棒は衰えず、チャンスこそ強くはないが、なぜか満塁時は恐ろしく強い。引っぱるだけでなくよく右への特大の本塁打も打つ。
05年5月5日のヤクルト戦、藤井秀悟の投球が顔付近にきてこれに怒り、マウンドの藤井目がけて走っていき右頬を殴って退場処分となった。この一件によりウッズは10試合の出場停止処分をうけ、当時首位を走っていた中日は主砲を失い直後に開催されたセ・パ交流戦で失速していった。
06年はうってかわってとんでもない成績を残す。.310、47HR、144打点と本塁打と打点の二冠王の活躍でチームのリーグ優勝に大きく貢献。巨人戦で優勝を決定付ける満塁ホームランで落合監督を泣かす。
タフィ・ローズ
(96〜03年 近鉄〜大阪近鉄 04〜05年 巨人 07年〜 オリックス)
試合1316 .285 360HR 993打点
MVP1回、本塁打王4回、打点王2回、ベストナイン6回
シーズン最多本塁打 55HR (日本記録)
通算退場回数 9回 (更新中)
外国人通算本塁打数 (更新中)
外国人通算打点数 (更新中)
アメリカ・オハイオ州出身
大リーグ成績
.224 13HR 44打点
豪快なバッティングと陽気な関西弁で人気者のタフィ、シーズン55HRの日本記録保持者。ただプレー中は気性が荒く短気で退場回数は9回でこれも日本記録。
94年カブス時代のメッツとのメジャー開幕戦で、相手のエースから3打席連続のホームランと輝きを見せる。しかし、メジャーでの活躍はこれのみで不遇に終わり96年に近鉄に入団。
1年目から打率.293、27HR、97打点と活躍、その後順調に成績を残し、99年の4年目にはチームが最下位ながら打率.301、40HR、101打点で本塁打と打点の2冠王を達成。
そして6年目の01年に日本タイ記録となるシーズン55HRで本塁打王に輝きチームを前年最下位から一気にリーグ優勝に導いた。成績は打率.327、55HR、131打点の活躍で見事にMVPにも輝いた。この時の4番を打っていた中村紀洋と合わせて打ちまくったコンビ本塁打数は101HRで、従来の記録の85年阪神のバースと掛布の94HRを越えて日本記録となった。この年の近鉄の防御率は4.98、前々年と前年最下位だった防御率が4.54と4.66だったことを考えるといかに打線が投手陣を完全にカバーしたことがわかる。
02年にも46HR、117打点で打点王の活躍。03年も51HRで3度目の本塁打王に輝く活躍を見せるが、球団と複数年契約を結べなかったことを理由にFAで巨人へ移籍。
移籍後も04年に至上最強打線と呼ばれる超重量打線の一角を担い、45HRで4度目の本塁打王となった。
しかし、05年にチームが低迷していた頃のある試合、自身は逆転となるホームランを放っていながらまた簡単に逆転を許した投手陣に失意し、自分の頭を越える打球をゆっくり追いかけたところ守備の怠慢だとコーチに指摘されて「投手があれだけ打たれるのも俺のせいか? 巨人なんか大嫌いだ」と発言したところ、例のオーナーに罰金を命じられた。その年球団の構想から外れ右肩の故障も重なり退団。
07年、オリックスが大砲を求めテスト入団、2年ぶりに日本球界に復帰している。
シーズン55号
01年の本塁打争いは熾烈を極めた。シーズン序盤から西武のカブレラがホームランを量産し70発のペースで打ちまくった。それに対してローズは6月以降爆発して本塁打王争いを繰り広げた。
そして9月24日の135試合目に西武の松坂大輔からライトスタンドに豪快に叩き込み日本記録の王の55号に並んだ。
しかし、残り5試合から日本野球の記録を固持する偏狭さと外国人に対しての偏見が現れた。
138試合目となる福岡ドームで行われたダイエー−近鉄戦、このとき近鉄の優勝が決まっていたにも関わらず球場は満員の観客で埋め尽くされた。
注目のローズ打席は1・2打席目ともに四球、3・4打席目は、無理やりボール球を打ちにいき凡退でホームランどころか勝負もしてもらえなかった。この日先発した田之上がローズに投じた球は18球中ストライクはたったの2球。この時のダイエーの監督はシーズン本塁打 記録保持者の王貞治、選手コーチには特に指示を出していなかった。しかし、試合後コーチは王監督の下で働く自分たちには記録を守る義務があるとして田之上への指示を認める。この発言は問題を呼んだが、記録を持っていた王監督自らが勝負をしてくれと選手・コーチ陣に強く意思を示すことが必要だったと思われる。
結局ローズの本塁打はタイ記録で終わる。
デュウェイン・ホージー
(97〜98年 ヤクルト) 244試合 .267 51HR 142打点
本塁打王1回、ベストナイン1回
アメリカ・ペンシルバニア州出身
大リーグ成績
.274 4HR 10打点
とても明るくユニークでファンに愛された選手。なぜか松井秀喜をおさえて本塁打王を獲得した。
1997年の春季キャンプ、ホージーのプレーを見た野村克也監督は「打てんし、守れん」とボヤいた。
彼は野球の基本を知らなかったのである。ヤクルトのコーチに指摘されるまでボールは5本の指で握って投げるのが正しいと信じ込んでいた。が、れっきとした元メジャーリーガーであった。
来日当初、野村監督に酷評されたが、「ぼくは神様を喜ばせたいと思っているだけだ」と意に介さなかった。
彼は奇行の持ち主であった。横綱の曙と出会うと自らを「たろう」と名乗り、スパイクに書き入れた。ヘルメットの至るところに女子高生などからプレゼントされたプリクラを貼って悦に入っていた。意味もなく池山を「J・J」飯田を「ビリー」と呼んだ。プレーでも、左中間フェンス直撃の二塁打を放ったが、一塁ベースの踏み忘れでアウトになったこともあった。アッパースイングや片手打ちを注意されると「僕には30種類の打ち方があるんだ」と煙幕を張った。
それでも、来日一年目に堂々と本塁打王になったのだから分からない。
(プロ野球全外国人助っ人大辞典から)
2年目の春がきた。野村監督は驚いた。彼のスイングがアッパーからレベルに変わっていたのだ。
しかも冗談を飛ばしても反応しない。
「人間が変わったんだ。大人になったんだ」
野村監督は絶賛したが、シーズンに入ると全く打てなかった。両膝通の悪化もあったが、高めの真っすぐと低めのフォークのコンビネーションで軽くひねられつづけた。
1年は栄光、2年目は失意の日々を送り日本を去った。
(プロ野球全外国人助っ人大辞典から)
テリー・ブロス
(95〜97年 ヤクルト 98〜99年 西武) 89試合 防御率3.70 30勝 28敗 0S
最優秀防御率1回、ノーヒット・ノーラン1回
アメリカ・テキサス州出身
大リーグ成績
0勝 0敗 0S
「2階からボールが来る」と言われた長身ピッチャー。
メジャーでは振るわなかったブロスは95年のヤクルトにテスト入団した当初、4000万円の年俸の提示に「こんなにもらえるのか」と驚き喜んで来日したという。相当なハングリーだったブロスは1年目の開幕当初から奮闘し活躍を見せ、シーズン終盤の巨人戦では1死球のみのノーヒット・ノーランを達成。その年の最優秀防御率を獲得し14勝をあげ、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズでは完全にイチローの打撃を抑えてチームも日本一になった。
翌年以降は目立った成績もなく98年に西武に移籍し、99年には一軍で登板機会もなく帰国していった。
トーマス・オマリー
(91〜94年 阪神 95〜96年 ヤクルト) 742試合 .315 123HR 488打点
MVP1回、日本シリーズMVP1回、首位打者1回、最高出塁率4回、ベストナイン1回
アメリカ・ニュージャージー州
大リーグ成績
.256 13HR 131打点
阪神・ヤクルトでファンに愛された選手。
91年に3Aから阪神に移籍。キャンプの時点から首脳陣の評価は高く、視察にきた川上哲治には「今年の外国人では一番」と絶賛される。シーズンに入ると1年目から3割、20HRをマーク、翌92年には大洋を自由契約になったパチョレックをチームに紹介し、コンビで活躍。その時若手だった新庄剛志・亀山努らとともに低迷していた阪神をシーズン最後まで首位争いを演じて2位に躍進させる。
来日3年目の93年には首位打者も獲得。ファンからの人気がとても高かったが、当時の中村監督と対立し「長打力不足」を理由に94年オフに解雇。
95年からはヤクルトに移籍し打率.307、31HR、87打点の成績で見事その長打力を発揮しヤクルトをリーグ優勝に導きシーズンMVP、日本シリーズMVPに輝いた。96年もいい成績を残したがその年限りで引退した。
02年には特命コーチとして星野政権の下で古巣に復帰。外国人選手の橋渡しとして精神的主柱となり03年のリーグ優勝に貢献。04年からは阪神の駐米スカウトに就く。04年オフにライブドアの堀江社長からライブドアベースボールの監督就任要請があり承諾したが、楽天に新規参入合戦に負けたため、そのまま阪神に残っている。
「ハンシンファンハ、イチバンヤァー!」
阪神時代、ヒーローインタビューでお立ち台にあがって、この「ハンシンファンハ、イチバンヤァー!」の絶叫もあって阪神ファンに絶大な人気をほこっていた。しかし、首脳陣との対立によってヤクルトに移籍。すると古巣の阪神戦にめっぽう強く、阪神相手に3連発を放ったときには「ヤクルトファンハ、イチバンヤァー!」と発言。
阪神の特命コーチになってからは、阪神電鉄のCMに出演し、甲子園に来場の際には駐車場がないので車ではなく阪神電車を使ってねとアピール、「ハンシン電車ハ、イチバンヤァー!」と絶叫している。
日本シリーズの14球
95年のオリックスとのシリーズ戦目
延長11回に1死1,2塁で4番のオマリーに打席がまわってきた。サヨナラの場面での絶対的なチャンス。マウンドは小林。簡単に2ストライクと追い込まれるがそこからオマリーが粘る、7球目にはサヨナラかと思われる大ファール。この対決は実に14球にもわたり、最後はピッチャーの小林に軍配があがる。12分にも及んだこの対決はよく覚えている。
トニー・ソレイタ
(80〜83年 日本ハム) 510試合 .268 155HR 371打点
本塁打王、打点王、各1回
4打席連続本塁打
米国領サモア諸島 出身
よく「サモアの怪人」と呼ばれた。1年目から45HRと大砲っぷりを発揮、シーズン2度の4打席連続本塁打という偉業もやってのける。2年目には打率.300、45HR、108打点のホームランと打点の2冠王とチームの優勝に大きく貢献する。4年で155本のホームランという記録を見るだけでも凄さがわかる。
帰国後、故郷にてトラブルに巻き込まれ射殺される。
トレイ・ムーア
(02〜03年 阪神 04年オリックス)
64試合 防御率4.28 26勝 23敗 0S 打撃 48試合 .295 0HR 11打点
タイトルなし
アメリカ・テキサス州出身
野手顔負けのバッティングセンスの持ち主。バットをもっている時も驚異だった。
02年に阪神入り。入団当初から評価が高く解説者陣に「フォームに無駄がない」とうならせた。バッティングは一時期4割にまで達するくらい打ちまくり、まさに走・打・投で活躍した選手だった。よほど打撃に自身があったのかオールスターでバットを持参したり、野手にバッティング指導しているくらいだった。
ピッチングはシーズンが始まると序盤から活躍し最多勝まっしぐらと思わせるが夏以降にスタミナ不足で成績を落とす。2年連続で二桁勝利をマークするがこのことが原因となり阪神を退団。
04年に実績を買われてオリックスに入団。バッティングを生かすために野手起用も考えたが伊原監督が「野手の人に悪いから」と言ったため、その打撃を二度と見ることはなかった。同年に退団した。
トロイ・二ール
(95〜00年 オリックス) 614試合 .264 136HR 435打点
日本シリーズMVP1回、本塁打王1回、打点王1回、ベストナイン2回
アメリカ・テキサス州出身
93年にはメジャーで4番も勤めあのマーク・マグワイアとクリーンアップを打っていた。同年3Aでは投手としてマウンドにも登っている。
来日1年目の95年からオリックスの4番DHとして「がんばろう神戸」の年にリーグ優勝に貢献し、翌96年には32HR、111打点の本塁打と打点の2冠王となり2年連続のリーグ優勝とともに日本シリーズではわずか3安打ながら、その3安打すべてがタイムリーとなりシリーズMVPになる。三振も多かったが勝負強くパワーもある頼りになる助っ人だった。
98年に一度解雇されるが頼りにしていた外国人選手のあまりの出来に翌年2年契約でオリックスに復帰。そして、00年に退団。
現在では、オセアニアのバツアヌ共和国の島をレンタル購入してリゾート開発に着手している。ちなみにバヌアツにはエロマンガ島というユニークな名前の島がある。
フランク・ボーリック
(99〜02年 千葉ロッテ) 424試合 .266 92HR 288打点
タイトルなし
アメリカ・ペンシルバニア州
『ボーリック神話』ならぬ不敗神話まで築きあげたマリーンズ有数の助っ人外国人。豪快なオープンスタンスから繰り出されるパワフルなバッティングが印象的。
99年にロッテに入団。来日初打席でホームラン、しかもこれが決勝点となり、以降ボーリックがホームランを打つ試合は勝ち続けたためにファンはこれをボーリック不敗神話と呼んだ。しかし、一度不振に陥るとなかなか抜け出せなくなるところがあり52打席連続ノーヒットを記録するなど大きなムラがあった。
翌00年になると、打率3割弱、29HR、102打点の活躍で日本野球に対応し始めた。
01年はさらにその成績をあげ30HR、100打点をクリアした。投手に与える恐怖感はその107四球という数字を見れば明らかである。これで名実ともにマリーンズの助っ人外国人となった。
しかし、02年開幕から続いた不振から抜け出すことができずケガもあってこの年に解雇となった。
ベニー・アグバヤニ
(04年〜 千葉ロッテ )
346試合 .291 65HR 236打点
タイトルなし
アメリカ・ハワイ州出身
大リーグ成績
.274 39HR 156打点
愛称は「ハワイアンパンチ」、見た目とは違いとても温厚な性格でファンからもチームメイトからも愛されるハワイアン。応援かも『アロハ・オエ』が原曲。
もとはメッツでボビー・バレンタインのもとでプレーをしていたこともあり監督の就任と共に04年に来日。一年目から期待に応えてチームトップの35HRを放ち、3割30本100打点をクリアする。
05年にはさまざまな起用をされて成績こそは平凡だがチームの日本一に貢献、同年のアジアシリーズではMVPを獲得。
日本がとても気に入ってるらしく、「千葉ロッテに戦力外を受けたとしても、コーチとして関わっていきたい」とチームを本当に愛している。
マット・ウィンタース
(90〜94年 日本ハム) 637試合 .267 160HR 428打点
最多四球1回
アメリカ出身
大リーグ成績
.234 2HR 9打点
ファイターズで最も愛された外国人選手。
入団以来、4年連続30本塁打の成績。成績よりもその明るさとサービス精神旺盛な姿が印象的。陽気な彼は、雨の日にグランドを全力で駆け抜けホームベースにスライディング!突然ハゲ頭のズラをかぶって現れたり、チアガールといっしょにダンスをしたり、手品をやってみたり、極めつけはケガで故障中にスタンドの応援の中に現れたという逸話も残っている。
ラルフ・ブライアント
(88年 中日 88年シーズン途中〜95年 近鉄) 773試合 .261 259HR 641打点
MVP1回、本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン3回
三振王5回
4打数連続本塁打
シーズン最多三振 204(日本記録)
アメリカ・ジョージア州出身
大リーグ成績
.253 8HR 24打点
『ホームランか三振』の超強打者。
1年目中日の3番目の外国人として2軍で影を潜めていたが、シーズン途中に近鉄へと移籍。それから74試合ながら34HRという爆発的な成績をあげて近鉄の主砲に。翌年49HRを放ち見事本塁打王に輝き近鉄のリーグ優勝に大きく貢献してMVPを獲得。
93年に42HR、107打点で見事本塁打と打点の2冠王を果たすが、シーズン最多となる204三振の記録もうちたてた姿がファンにとって印象的だった。95年に不振のためにシーズン途中で退団。
05年に恩師仰木彬監督の下でオリックス・バファローズで打撃コーチを務める。
ダブルヘッダー4連発
89年のシーズン終盤の10月、優勝を争っていた近鉄と西武が優勝を賭けたダブルヘッダーを行った。この2連戦を制したチームが優勝に近づく状況の中ブライアントはやってのけた。
1試合目ブライアントの3打席連続となる3HR6打点の一人の活躍で6−5の逆転勝利。
続く2試合目、1打席目は四球、そして2打席目に先制ホームランを放ち、勢いに乗った近鉄は14−4で2連勝を果たし、その勢いのまま優勝を決めた。この時のブライアントの4HRは2試合をまたぐ4打数連続本塁打となった。
認定ホームラン第一号
90年6月6日の日本ハム戦でブライアントが放った打球は、すさまじい勢いでセンター方向へ舞いあがり、東京ドームのセンター後方の天井に付いている高さ44.5メートルのスピーカーに当たってニ遊間に落ちた。これが判定の結果ホームランとなり、認定本塁打第1号となった。
これは、ドーム球場が日本にできて以来、初めてのこと。これからドーム球場で天井に打球が当たった時のルールが生まれた。
このときの推定飛距離はおよそ170メートル超だったろうと言われている。
ランディ・バース
(83〜88年 阪神) 614試合 .337 202HR 486打点
85、86年3冠王、MVP1回、日本シリーズMVP1回、首位打者2回、打点王2回、本塁打王2回、ベストナイン3回
シーズン最高打率.389
連続試合本塁打 7
連続試合打点 13
シーズン勝利打点 22
最高長打率 .777 (いずれも日本記録)
アメリカ・オクラホマ州出身
大リーグ成績
.212 9HR 42打点
阪神至上、いや球界至上最高の助っ人外国人!阪神ファンの中では神様的存在。
メジャーでは5球団を渡り歩いているが通算打率.212と振るわなかった。その頃の年俸が850万と知ると驚く。来日1年目、オープン戦のケガや父親の死などで日本球界への適応に苦しんでいたが打率こそは3割を切るが35HRとその長打力を発揮する。2年目からは打率もあがりはじめ、迎えた3年目、打率.350、54HR、134打点という驚異的な成績で見事3冠王。チームも21年振りのリーグ優勝を果たしMVPも獲得、日本シリーズでも3本塁打を放つ活躍でシリーズMVPになり阪神を球団史上初の日本一へ。
翌年も日本記録の打率.389をはじめに、47HR、109打点で2年連続の3冠王に輝く。
88年の5年目に息子が難病を患い帰国したことに、阪神球団から一方的に解雇されて、ファンに惜しまれながら退団。この時にも外国人選手に対してフロント側の冷たい対応がされていることが悲しい。
現在では、病気だった息子も結婚し孫も授かっている。
バックスクリーン3連発
85年4月17日甲子園で行われた阪神−巨人戦に飛び出した名場面。
3−1と巨人2点リードの7回裏二死一二塁、マウンドは若き日の槙原寛巳。バッターはバース。
初球を豪快にバックスクリーンに叩き込み逆転3ラン、続く掛布雅之、岡田彰布も共にバックスクリーンへ叩き込み3連発となった。
これで勢いに乗った阪神はペナントを制し日本一まで登りつめた。
カーネルサンダース人形
85年阪神がリーグ優勝したその日、道頓堀川への飛び込みが続く中興奮した阪神ファンがケンタッキーのカーネルサンダースの人形を見て、バースに似ているからという理由で胴上げされ、さんざんもてあそばれた挙句に道頓堀川へ投げ込んだという。
これ以来18年間優勝から遠ざかった阪神を見てファンは、優勝できないのは「カーネルサンダースの呪い」のせいだとして語り継がれていた。
ルイス・ロペス
(96〜97年 広島 98年 ダイエー 00〜02年 広島)
709試合 .303 129HR 510打点
最多安打1回、打点王2回、ベストナイン2回
アメリカ・ニューヨーク州出身
大リーグ成績
.205 0HR 7打点
96年に広島に入団。キャンプが始まった時点では打球が前に飛ばなくわずか6日で打撃フォームを改造。メジャーで実績のなかった彼はこれを素直に受け入れる。これが功をそうしたのか一年目から打点王、2年目も最多安打と2年連続となる打点王を獲得。しかし、活躍しすぎってしまったために金銭面で契約交渉決裂。98年に育ててもらった広島を去りダイエーへ。
ダイエーでもそんなに悪くない成績を残すが主砲としては物足りないとして退団。99年にはアメリカの独立リーグでプレー。
00年、広島の外人選手のあまりの出来のためにシーズン途中ながらも古巣に復帰。広島に帰ってくると人が変わったかのようにその勝負強さを再び発揮し、93試合出場ながら打率.313、20HR、88打点の活躍。01年には3割、30HR、100打点以上の成績で完全復活し広島の主力選手として活躍。
しかし02年に事件が起こった。その年に2番目の女の子を授かった彼のヤル気は凄まじかった。キャンプ当初から打率.350、56HR、160打点のとんでもない目標を掲げてこの年に本気でかけていた。そして02年の4月6日の中日戦、ランナー2塁の場面でロペスはヒットを放つ、しかし2塁ランナーは足に故障を抱えている前田智徳。前田は大事をとって本塁に帰らずにロペスに打点がつかなかった。このプレーに対してロペスはベンチに戻った後に前田を殴ってしまい乱闘騒ぎを起こしてしまった。この時ロペスは「自分の記録やタイトルのためではなく、チームが勝つために野球をしているんだ」と言い放ったが球団側から10日間の謹慎処分を受ける。この一件に対しては批難の嵐が巻き起こった。その後、復帰し前田とも話し合って謝ったが、不本意な成績に終わりその年限りで退団した。
レオン・リー
(78〜82年 ロッテ 83〜85年 大洋 86〜87年 ヤクルト)
1255試合 .308 268HR 884打点
ベストナイン2回
一試合10打点(セ・リーグ記録)
アメリカ・カリフォルニア州出身
大リーグ経験はなし
リー兄弟の弟。兄がロッテに来ていきなりの2冠王の活躍を見せたその弟に目をつけた球団が、兄レロンの勧めもあって翌年来日、入団させた。1年目からずっと活躍し3年目には打率.340、41HR、116打点と3冠王になっても不思議でない成績を残すが生涯無冠。兄弟そろって打ちまくっていたが、活躍を見せはじめた落合博満などの若手が活躍してきて球団の育成方針のため82年に大洋へトレード。大洋でも活躍をしながら3年で解雇されて、86年にヤクルトへ移籍、87年に兄が帰国するのを追うかのように兄弟いっしょに帰国。
その後、オリックスでコーチを経て03年のシーズン途中からオリックスの監督も勤めた。
日本記録の一試合10打点の内容は、満塁弾、3ラン、2ラン、その他に1打点であり、あとソロHRでサイクル本塁打になっていた。
レロン・リー
(77〜87年 ロッテ) 1315試合 .320 283HR 912打点
首位打者、最多安打、打点王、本塁打王、各1回
ベストナイン4回。
生涯打率.320は4000打席以上の日本最高記録
アメリカ・カリフォルニア州出身
大リーグ成績
614試合 .250 31HR
リー兄弟の兄。メジャー4球団の経験があるがレギュラーとしての扱いはなし。1年目から打率.317、34HR、109打点と本塁打と打点王の2冠王の活躍を見せて、11年にも渡ってロッテの主力打者として活躍した。2年目には弟のレオン・リーを日本に連れてきて兄弟そろって打ちまくった。87年に打率.274、9HRと初めて打撃不振に陥り、これだけ日本球界に多大に貢献したのにも関わらず最後は引退試合も行われずに日本を去っていった。通算打率.320は未だに堂々の球界歴代1位として輝き続けている。
ロドニー・ペドラザ
(99〜02年 ダイエー 03年 巨人) 194試合 防御率2.99 12勝 12敗 117S
最優秀救援投手2回
アメリカ・テキサス州出身
99年の途中からダイエーに入団。当初は先発として期待されていたが、チーム事情で後ろの方に回ってみると抑えとして目まぐるしい活躍を見せる。3勝27Sの活躍で中継ぎで14勝の荒稼ぎをした篠原貴行とともにチームの日本一に大きく貢献する。ていねいなピッチングから繰り出される投球は変化球ストレートともにキレがありホークスの絶対的な抑えとなった。翌00年には38SPをあげて初の最優秀救援投手に輝き、チームの2年連続のリーグ優勝へ導く。
更に01年も前年に続き38SPで2年連続の最優秀救援投手になる。守護神の地位を確固たるものとした。
しかし、02年は不振が続きその年で退団。翌年巨人と契約するがわずか7試合と出場機会も少なくこれをうまく生かせずシーズン途中で解雇される。
ロバート・ローズ
(93〜00年 横浜 03年 ロッテ) 試合 .325 167HR 808打点
首位打者1回、最多安打2回、打点王2回、最高出塁率1回、ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞1回
サイクル安打3回 (日本記録)
右打者シーズン最高打率.369
一試合10打点
アメリカ・カリフォルニア州出身
ベイスターズ至上最高かつ球界屈指の助っ人外国人。
92年にメジャーで活躍し始めていた頃の5月に移動中のバスが転倒し骨折、そのままマイナー落ちして翌93年に目をつけていた横浜が獲得グレン・ブラッグスとともに入団。
当初、ブラッグスの方が評価は高かったが1年目から94打点をあげ打点王。95年にはサイクルヒットを記録。毎年順調に3割台の打率を残しブラッグスの退団後の97年からは4番を勤めて、最高出塁率のタイトル獲得と2度目のサイクルヒットを記録。
98年にも打率.325、19HR、96打点の活躍でチームの38年ぶりの日本一に貢献。
圧巻だったのが最高頂に達した99年、打率.369、37HR、153打点の首位打者と打点王の2冠王で過去最高の成績をあげる。この時のそれぞれの記録が、打率.369は右打者として歴代1位、ホームラン3位、153打点は小鶴誠の161に次いで歴代2位、192安打は当時のセ・リーグ記録。極めつけは自身3度目のサイクルヒットを達成!もしチームが優勝していたら間違いなくMVPを獲得していたはず。
00年も最多安打など素晴らしい成績を果たすが球団と契約が折り合わず引退して帰国した。
そして、03年に2年間のブランクを経てロッテで復帰、しかし、ブランクの穴は埋められずにシーズン前に自ら退団を申し出て帰国。
ホームラン数の割には打点が多く、異常なくらいにチャンスに強くアベレージヒッターで、安定した外国人だった。
[特別編]
SHINJO
(04〜06年 北海道日本ハム) 357試合 .268 60HR 198打点
ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞3回
(成績は全てSHINJOという名に登録後のもの)
JAPAN・FUKUOKA、アメリカ・ニューヨーク州出身
大リーグ成績
.245 20HR 100打点
球界のスーパースター&異端児。球界再編に揺らいだパ・リーグを盛り上げた最高の立役者。
どんなリーグでプレーしても打率.250ぐらいを打つ選手。
メジャーでの成績は大したことはなかったけど勝負強かった。メディアでも大きく取り上げられメジャーに行ってから大きく名前が知れ渡った選手。以前日本球界でもプレーをしたことがある。
04年、有名人になった彼が新天地として求めたのが北海道日本ハム。そのスター性とファンを魅了する守備力を買われ入団。1年目からパ・リーグの顔としてファイターズを引っ張り、日本野球界を大きく賑わした。選出された04年のオールスターでは試合前からMVP宣言をして、球宴初となるホームスチールなどの活躍で見事宣言どおりにMVPに選ばれる。シーズン終盤のロッテとのプレーオフ争いの中、見事プレーオフ進出を決めるサヨナラホームラン(公式記録はヒット)を放つなど天性の勝負強さとスター性を発揮した!
その魅せる守備では肩が強く多くの捕殺も記録している。
05年はケガにも泣かされ出場機会が減ったがそれでもゴールデングラブ賞を受賞、しかし、シーズン通して出場していないからという理由でこの賞を不服として、この表彰式を欠席して同日行われていたスニーカーshowの「BEST
STYLE IN SNEAKERS」に出て受賞していた。しかしこの賞を受賞したSHINJOはスニカーは4足しか持っていないことが判明した。
06年4月18日、その日のヒーローインタビューで突如この年限りでの引退を表明。すると、シーズン前半戦下位に沈んでいたチームが怒涛の快進撃を見せて、最終戦において首位に立ち公式戦1位通過。勢いはとどまらずプレーオフも制しリーグ優勝し、本拠地札幌ドームで日本一を果たす。優勝の胴上げは異例のトレイ・ヒルマン監督よりも先に行われた。
この一連の奇跡は、新庄劇場とも呼ばれる。。
SHINJO ☆数々のエピソード☆
子供の頃から当たっている!
小学生の頃に8回も交通事故に遭っている。
強肩はプロに入って下降気味
プロで活躍するようになってからよく強肩で注目されるようになった。
しかし、高校の野球部仲間に会ってみると「肩の力落ちたな」と言われるらしい。高校の頃はもっと凄かったよう。
年俸で愛車購入
年俸が2200万円になった若き日のSHINJOは、その年俸で2000万円のベンツを購入。しかし、税金のことをすっかり忘れていてその後生活に困ったらしい。
センスがないんです
阪神時代、ファンから絶大な人気を博していた頃に監督との対立から
「僕には野球センスがないんです」
と引退宣言を言い放ち、一時、ファンや報道陣を騒然とさせた。
華麗なキャッチ
SHINJOはフライなどのボールをキャッチする際に、軽くジャンプして捕球をする。これには周囲から「お客さんに魅せるためにやっているのか」「少年野球の子供たちに悪影響を及ぼす」と解説者やコーチをはじめ歴代の先輩方によく批難されていた。
でもこれは彼独自のスタイル。周りから何と言われようが貫いていたが、中日の宇野さん以来の顔面捕球を披露をしてとうとうコーチに禁止命令が出された。
SHINJO ☆野村監督☆
99年から低迷していたタイガースを立て直すために90年代ヤクルトの監督として一時代を築いた野村克也氏が阪神の監督に就任した。
SHINNJOはこの監督の下で、その奇抜なキャラを存分に放った。
ピッチャー転向??
春のキャンプで一番に新庄に目をつけた監督は、このようなニュアンスで言い放った。
「お前の球は野手としてはもったいない、マウンドに立ってみろ」
それからピッチャーSHINJOが本気で計画されて、オープン戦でも登板して打者のバットを折る活躍もみせている。
興味ないんです
守備で定評があり足の俊足なSHINJOに対して野村監督が「どうして盗塁をしないのか」と尋ねたところSHINJOは
「僕、盗塁には興味がないんです」
と言い放った。
敬遠球をサヨナラ
99年6月12日、甲子園での巨人戦で槙原寛己がSHINJOを歩かせようとして敬遠球の初球を見事(?)レフト前サヨナラヒットをボテボテのゴロで持っていきその試合のヒーローとなる。
この時の野村監督の言葉が「アイツは宇宙人だ」と言い、宇宙人疑惑が出る。
そして、ヒーローインタビューに立ったSHINJOが放った言葉。
『明日も勝つ!!』
翌日は勝てなかった。
12連敗
同年の9月10日チームが勝ち、見事活躍したSHINJOが試合後ヒーローインタビューでまた
『明日も勝つ!!』
と言ってから翌日から12連敗も続いた。
メジャー宣言
阪神からFA宣言をして、ヤクルトなどが獲得に興味を示していてその去就が注目されていた中、会見で
「自分の好きな球団が見つかりました!その球団は...ニューヨーク・メッツです!」
周囲・関係者・ファンはもちろんヤクルトの関係者までもが唖然とし「まぁ、好きにしてください」と、イチローと同年にメジャーへ行くとはどういうことだという雰囲気が流れていた。このときは多くの人がSHINJOの活躍を予想していなかった。
愛車フェラーリ
メジャーへの移籍が決まったSHINJOが長年愛用し1800万円で購入した愛車のフェラーリを、ネットオークションで売ってアメリカ移住生活資金にあてようと考えた。
買い手も決まり安心していたところ、突然の買い手の購入拒否!!
当初、年俸も阪神時代の半分以下になっての渡米で活躍の保障されない世界への進出だったため、結婚したばっかりのSHINJを哀れむ意見が多かったが、持ち前の明るさと豊かなキャラのおかげでCMに抜擢されて一気にスターに。生活面のことを考えてオークションを開いていたなんて今では懐かしい思い出である。
ちなみに収入面で心配のなくなったSHINJOは、また新車のフェラーリを購入している。
SHINJO ☆メジャー時代☆
打ったコツは?
メジャーでホームランを打って、会見でインタビューされると
「思いっきり振ったら入った」
らしい。
やっぱり外国人??
同時多発テロの時のコメント 「オレもアメリカ人だから戦わないと」
誰も否定はしない。
勝負強さ
メッツ時代、満塁時の打率が異様に高くそのチャンスでの強さは日本人初となるメジャーの4番を張るなど、チームメイトはその不思議な勝負強さにあやかろうとロッカールームのSHINJOの専用シートにタッチするという現象まで起きた。
SHINJO ☆日本球界復帰☆
テレビ番組でも強運
日本球界復帰が決まっていた04年お正月に放送の「クイズ$ミリオネア」で持ち前の勝負強さで、見事15問全問正解して1000万円を獲得していった。
答えがわからない時は、持ってきた自家製の鉛筆コロコロを使って答えに正解していた。
この時の賞金は、札幌ドームに広告看板を作った。
ひょっとしたら韓流スター?
SHINJOはもしファイターズが04年に北海道へ移転していなかったら日本球界には戻ってきていなかったかもしれない。
日本ハムが東京から北海道にフランチャイズを移転する元年の年に、メジャーでの移籍問題で悩んでいたいたSHINJOが日本ハムに目をつけた。1年目の響きと可能性に惹かれたのである。
後にSHINJOはテレビ番組などで韓国野球に興味があったことを言っており、ひょっとしたら世間の韓流ブームとマッチして日韓の架け橋になっていたかも知れない。
カブリものパフォーマンス
試合前にファンへのパフォーマンスとして、よくカブリものを使用する。ゴレンジャー、カエル、スパイダーマン、SHINJOが何人も登場したり、SHINJOが自分が食べられている顔が何個も連なっている不気味なマスクなどを使用。
このカブリものを披露の日の試合はなかなかの好成績でチームが勝っている。
サヨナラホームラン??
ロッテとの熾烈なプレーオフ争いの最中、04年9月20日の札幌ドームでのダイエー戦。試合前にゴレンジャーの覆面を披露してファンを沸かせていて雰囲気はあった。両チーム打ちに打って12対12で迎えた9回2死満塁、打席に立ったSHINJOはその勝負強さを発揮し劇的な幕切れとなるサヨナラ満塁ホームランを放つ。
あまりの劇的さに興奮した1塁ランナーの田中幸雄に一二塁間上で抱きつかれて、SHINJOが田中を抜いてしまったためSHINJOがアウトになり記録はサヨナラヒットになってしまった。(*バッターやランナーは前の走者を追い越してしまったら抜いた方がアウトになる)
ちなみにこの時は、3塁ランナーがその前にホームインしていたしバッターのSHINJOが1塁ベースを踏んだ後だったのでサヨナラが成立した。(←野球ってややこしい)
始球式
SHINJOは日本ハムでの打順が1番のためによく始球式のバッターとして立つことが多い。
通常投げた球は空振りすることが暗黙のルールだが、SHINJOはおかまいなしに打ってしまう。投げるのがちびっ子だろうが関係ナシ。しかし女子ソフトボール日本代表の人と3球勝負では見事に3球空振り三振に終わっている。
元気ハツラツ?
05年3月26日、福岡Yahoo!JAPANドームで行われた対ダイエー戦との開幕戦では始球式にCMで共演していたタレントの上戸彩が登板、バッターボックスに向かうSHINJOはバットを持っていなかった。
注目を浴びる中どうするのかと思われたがSHINJOはポケットから通常市販サイズのオロナミンCを取り出して上戸に向かって
「元気ハツラツ?」 「Of Course!」 とCMどおりに演出。
結果はリーチが全くないので空振りとなる。
下着は毎日新品
男性下着メーカーのグンゼのイメージキャラクターに抜擢されたSHINJOはこう発言。
「毎日、新しい下着を履くのがポリシー。見えないオシャレです」
男女共に見えないところにこそオシャレが必要なことを豪語していた。
ちなみにSHINJOはロッカールームでチームメイトのよれよれになったパンツを見ると試合へのヤル気も落ちてしまうらしい。
目に見えるオシャレ
05年のオールスターでSHINJOはおよそ1000万円ともする特製スパイクをあしらって出場した。そのスパイクには片一方に180万円相当のダイヤが埋め込んであった。
第1戦で代走として途中出場して、出てきただけで球場のファンが大声援。ほんとに何にもしていないのにガッツポーズを決めていた。
第2戦では更に気合が入っていてユニフォームの胸元はSHINJO、背中にFITERSと書いてある特製ユニフォーム、バットは始球式用の黄金バット、例のスパイクで試合に臨もうとしたがユニフォームは認められずあえなく却下。セ・リーグの速球王である五十嵐亮太に対してそのアイテムで真っ向から挑んで2塁ゴロ。その後、盗塁死。盗塁に興味がなかったはずのSHINJOは誰もが認めるエンターテナーである。
SHINJO伝説はまだまだ続いていく...
やきゅうのTopへ
| 広告 | 花 | 無料レンタルサーバー ブログ blog | |